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2015年10月26日

青梅街道 田無町並み変遷図

青梅街道 田無町並み変遷図
出版のお知らせ。

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  • 2015年02月02日

    田無に武装勢力結集!

    その武装勢力の正式な名称は「振武軍(しんぶぐん)」といった。
    慶応4年(明治元年・1868)1月3日はご存知、鳥羽・伏見の戦い。兵力において優勢であったのは一橋家出身の十五代将軍徳川慶喜に率いられた幕軍であったが、実体はやる気の無い諸藩の寄せ集め部隊であった。
    陣営で士気盛んなのは会津・桑名両藩兵と近藤・土方のツートップがまばゆい新撰組のみ。




    開戦当初は薩長軍に対して結構反撃した幕軍も、薩長が錦旗(つまり天皇軍旗)を揚げるや否や、退却、寝返りをうつ諸藩が続き、ありゃまの総崩れ。大阪城で指揮をとる慶喜と会津・桑名両藩主は自軍兵士を放置したまま、海路江戸に逃げ帰る失態。
    勢いづく薩長軍は1月7日に天皇の慶喜追討令(天皇の側近が書いた筈)を出し、4月11日、江戸城は無抵抗の中で薩長軍の前に開城。
    城を出た慶喜は上野に謹慎しダンマリを決め込む。薩長軍の江戸進駐に反発する幕臣の一部は江戸の治安を守る名目で武装勢力を組織した。


    慶喜の実家である水戸一橋家の渋沢成一郎や天野八郎らは武装勢力「彰義隊」を組織したが、慶喜が水戸に謹慎するにあたり、両者の方向性の違いで分裂(水戸で慶喜を守る派の渋沢成一朗と江戸に残る派の天野八郎)。
    渋沢はそれならと400名で別働隊としての「振武軍」を結成、田無・西光寺(現・総持寺)に陣を置き薩長軍と対決する構えを見せた。




    田無の大名主下田家は江戸の水戸藩一橋家屋敷の糞尿を買い取り多摩近郊の農家に卸すビジネスをしていたので、下田家の意気のかかったこのエリアは一ツ橋家に仕える渋沢には好意的であったのだろう。
    天野の彰義隊はいざ上野で薩長軍と衝突するとあっけなく一日で壊滅。その残党が「振武軍」に合流した結果600名近い兵力になり、
    軍事的見地から平地である田無を出て箱根ヶ崎(横田基地の近く)を経て、5月18日には一橋領のある飯能に入った。
    そこで天覧山・能仁寺を本陣として薩長軍を迎え撃つ作戦に出たのだ。




    が、関東の諸藩を加えて、新政府軍となった薩長軍は近代的重火器に凡そ3000人の兵力で振武軍を圧倒しこれを破った。
    世にいう飯能戦争である。敗北した成一郎はNever give up!と闘いを続け、榎本武揚、土方歳三らと函館戦争を戦ったがついに降伏。
    のちに従弟の渋沢栄一の紹介で大蔵省に入り実業界で大成功をおさめたそうだ。
    渋沢さんしぶとい男ですね。
    惚れました。


      


  • Posted by まつざきひろし at 12:47Comments(0)江戸時代の田無

    2014年07月13日

    近辻代表 2講演会で田無保谷をレクチャー。

    当会代表で西東京市文化財保護審議会委員・下野谷遺跡保存協会会長でもある近辻 喜一さんが郷土史研究家として
    西東京市男女平等推進センターのアラ還世代企画『男塾』で講師をつとめました。

    第1回 知ってほしい!これからを過ごす地元、田無・保谷の歴史(講演会)


    テーマ 「田無のルーツをさぐる」
    故郷がいっぱい/御白土を運ぶ/街道筋へ強制移住/領主もいっぱい/ようやく水が来た

    平成26年6月17日(火曜日)午前10時から正午(終了しました。)
    住吉会館ルピナス2階 研修室


    第2回 講師と巡る宿場町たなし  旧名主・下田家、総持寺、田無神社(見学会)


    テーマ  見学 「宿場町たなし」
    旧名主下田家→総持寺→田無神社→柳沢宿

    平成26年6月24日(火曜日)午前9時30分から正午(終了しました。)
    田無駅2階改札口に集合
      


  • Posted by まつざきひろし at 15:39Comments(0)江戸時代の田無