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2015年02月02日

田無に武装勢力結集!

その武装勢力の正式な名称は「振武軍(しんぶぐん)」といった。
慶応4年(明治元年・1868)1月3日はご存知、鳥羽・伏見の戦い。兵力において優勢であったのは一橋家出身の十五代将軍徳川慶喜に率いられた幕軍であったが、実体はやる気の無い諸藩の寄せ集め部隊であった。
陣営で士気盛んなのは会津・桑名両藩兵と近藤・土方のツートップがまばゆい新撰組のみ。




開戦当初は薩長軍に対して結構反撃した幕軍も、薩長が錦旗(つまり天皇軍旗)を揚げるや否や、退却、寝返りをうつ諸藩が続き、ありゃまの総崩れ。大阪城で指揮をとる慶喜と会津・桑名両藩主は自軍兵士を放置したまま、海路江戸に逃げ帰る失態。
勢いづく薩長軍は1月7日に天皇の慶喜追討令(天皇の側近が書いた筈)を出し、4月11日、江戸城は無抵抗の中で薩長軍の前に開城。
城を出た慶喜は上野に謹慎しダンマリを決め込む。薩長軍の江戸進駐に反発する幕臣の一部は江戸の治安を守る名目で武装勢力を組織した。


慶喜の実家である水戸一橋家の渋沢成一郎や天野八郎らは武装勢力「彰義隊」を組織したが、慶喜が水戸に謹慎するにあたり、両者の方向性の違いで分裂(水戸で慶喜を守る派の渋沢成一朗と江戸に残る派の天野八郎)。
渋沢はそれならと400名で別働隊としての「振武軍」を結成、田無・西光寺(現・総持寺)に陣を置き薩長軍と対決する構えを見せた。




田無の大名主下田家は江戸の水戸藩一橋家屋敷の糞尿を買い取り多摩近郊の農家に卸すビジネスをしていたので、下田家の意気のかかったこのエリアは一ツ橋家に仕える渋沢には好意的であったのだろう。
天野の彰義隊はいざ上野で薩長軍と衝突するとあっけなく一日で壊滅。その残党が「振武軍」に合流した結果600名近い兵力になり、
軍事的見地から平地である田無を出て箱根ヶ崎(横田基地の近く)を経て、5月18日には一橋領のある飯能に入った。
そこで天覧山・能仁寺を本陣として薩長軍を迎え撃つ作戦に出たのだ。




が、関東の諸藩を加えて、新政府軍となった薩長軍は近代的重火器に凡そ3000人の兵力で振武軍を圧倒しこれを破った。
世にいう飯能戦争である。敗北した成一郎はNever give up!と闘いを続け、榎本武揚、土方歳三らと函館戦争を戦ったがついに降伏。
のちに従弟の渋沢栄一の紹介で大蔵省に入り実業界で大成功をおさめたそうだ。
渋沢さんしぶとい男ですね。
惚れました。


  


  • Posted by まつざきひろし at 12:47Comments(0)江戸時代の田無

    2015年02月02日

    妖怪「野寺坊」が住むお寺。



    田無北部に隣接する埼玉県新座市には野寺という地名がある。

    この地には寺の鐘を盗もうとした男たちが旅人に見つかりそうになり、鐘を寺の近くの池に落として逃げ去ったという民話が残っているそうだ。

    寺とは新座市野寺2-15-17に現存する真言宗智山派の満行寺のことで、著名な歌人が詩に詠むほどの名刹である。




    「武蔵野の野寺の鐘の声聞けば遠近人(おちこちびと)ぞ道いそぐらん」 藤原業平

    「はるばると思いてもやれ武蔵野の ほりがねの井に 野寺あるてふ」 紀 貫之


    ぼろの衣を着て廃寺に住むという妖怪「野寺坊」誕生の寺とされ、妖怪マニアの間では超人気なのだという。

    写真の野寺坊は江戸時代の妖怪絵師鳥山石燕の創作妖怪だとも言われるが、実はこの野寺 正式名=満行寺にまつわる伝説「野寺の鐘」にそも

    そものルーツがあるというのが現在最も有力な説だそうな。

    寺の南西には野寺園という釣堀が最近まであった。

    古絵図をみると釣堀のあった位置に鐘ガ淵と呼ばれた湧水池がある。今は暗渠となった中沢用水の水源池でもあった。

    この池こそ盗人が鐘をボチャン!と落としたという池のことだ。

    ということは鐘が今でも釣堀の底に埋まっているということなのか。さ、どうする!

    この伝説と妖怪「野寺坊」がどう結びつくのかは今一つ分らないのだが、古絵図を見る限り江戸時代には妖怪が現れても不思議でない淋しい武蔵野

    の原風景だったことが分る。満行寺の南にはこれまた由緒ある武野神社(たけしのじんじゃ)がある。

    ここには霊験あらたかな湧き水があるが、最近は枯れることが多いという。霊験も周辺の都市化には敵わないのであった。ざ、残念。 

    満行寺
    〒352-0034 埼玉県新座市野寺2丁目15−17


      


  • Posted by まつざきひろし at 12:01Comments(0)管理人の寝言。