目黒村に反対されて困っていた東京府に、ある人物を通して、田無町が手をあげるという情報がもたらされました。
色めく東京府。が、事はスムーズに動きませんでした。
新しい療養所開設は当時,国と東京府にとっての大事業の一つとあって情報屋、利権屋の暗躍があったと推察される。
実際、久米川出身の川上由雄という「壮士」を自称する人物から、彼の知人であった田無町議会の最有力町議のS田遊亀蔵氏に打診があり、S田氏は自分に次ぐ有力町議のK山平太郎氏に相談し、両者の意見はほぼ誘致で一致をみました。
誘致候補地は現在の通称、東大農場にあたる広大な低湿地帯で、当時はほとんど居住者のいない原野。
両議員の町議会における影響力は極めて大きく、そのために町議の認印を取り誘致賛成の請願書を作成し、町長のU野氏の添書、職印を押捺し、町議会での審議を飛ばして、東京府に提出しました。
なぜ町議会を経ずして、勝手に請願書を提出したのか。町民は激怒したのでした。続く。