幕末の田無5 天野八郎 田無に現る!

まつざきひろし

2021年05月24日 14:36



5.幕末の田無(その時時代は動いたかもね)

鳥羽伏見で敗北した旧幕府軍の江戸への帰還を助けた喜作は、1868年2月に江戸に戻り登城するも、慶喜の恭順の心は固い。
再度、徳川勢力を結集し薩長に対抗しょうと訴える喜作の言葉に耳を傾けるものは少なかった。なんたって主君が静かにしておれというのですから。

幕府陸軍の須永伝蔵が、慶喜公が辱めを受ける事態になれば挙兵し、薩長と戦うべし! と同志を募り、雑司ヶ谷の料亭茗荷屋に17名(主に一橋家関係者)が集まる。このグループがやがて彰義隊となる。
喜作は主君である慶喜が謹慎中に家臣は軽々しく行動すべきでないとして初会議には参加していない。この時点では徹底抗戦の気持ちはないようです。


会議には、幕末史を飾るイケメンの一人、渋沢平九郎が参加していた。
栄一の見立て養子となる平九郎を「風采、容姿、気立て、剣(神道無念流)いずれも優れて」と栄一は可愛がった。
やがて田無宿にも174cmの平九郎が闊歩することになる。色めく田無小町たちかどうかは分かりません。

その後何度か会合を重ね、喜作の参加を得て、67名が署名する仮名「尊王恭順有志会」が発足し、頭取に渋沢喜作、副頭取に天野八郎が就いた。


天野は一頃、明治の囲碁棋士で有名な巌崎健造(海老沢健造)の田無宿の実家にいたという。巌崎の実家は旅籠であり、旅籠で海老沢姓の経営となると「角屋」の海老沢権右衛門がそれだろう。現在の東光電波ビルのある場所で、有名な旅日記『御嶽菅笠』にある角屋のことだと思われます。ちなみに田無宿は柳沢宿とも言われていました。いよいよ田無が登場しはじめます。つづく。








関連記事