幕末の田無10 撃剣!並木綱五郎
10 幕末の田無(その時時代は動いたかもね)
戦力増強 振武軍!田無の剣豪 並木綱五郎!
新政府の追求を怖れたのか、田無には下田家文書も含めて振武軍に関係する記録がほとんど残っていません。
でも無いわけではありません。
振武軍会計下役(尾高新九郎の補佐)北條隆八郎の『戊辰私乗』には現代訳すると
「滞在すること十数日 隊の名簿を作り、規則を定め、近隣住民への略奪行為を禁じ、兵具を整備しています。我々の隊の噂を聞きつけて入隊するものが後を絶ちません」
旨の記録があります。
宿舎の西光寺境内では連日剣術の練習をしていて、幹部は来たるべき決戦に備え、多摩各地に兵士のリクルートに余念が有りません。
この頃のニュースとして面白い話が残っています。
西光寺境内での剣術練習は公開されていて、少し腕に覚えのある者の参加を許したそうです。その話を耳にして参加した男の一人に田無村北芝久保に剣術道場を開いていた並木綱五郎がいます。
なにが面白いかというと、人並み外れた並木の剣に、何人もの隊士が挑んだが
一人も勝てなかったというのです。
『田無市史第3巻通史編』では、並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、撃剣といわれる腕前になります。元治、慶応年間には田無の北芝久保に道場を持ち1871年(明治4年)に46歳で病死。亡骸は芝久保の並木家の墓に埋葬されたことが記されています。
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