幕末の田無6 彰義隊内ゲバで分裂!

まつざきひろし

2021年05月26日 15:24

6.幕末の田無(その時時代は動いたかもね)
彰義隊 内ゲバで分裂へ。

やがて徳川家に心を寄せる百余名が浅草の東本願寺に集まり、集団名を「彰義隊」とし、慶喜公警護のためと、上野の寛永寺に入り駐屯はじめます。



寛永寺では山岡鉄太郎の遊撃隊が既に慶喜の警護を担当しており、彰義隊は江戸市中の警備にあたります。
大政奉還直後の政治的空白期間に、幕府重臣から空席であった甲府城代にどうかという打診を受けた喜作は、彰義隊のことで手一杯とその誘いを断ります。



同じ打診を受けた新撰組近藤・土方はこれに応じ、甲州鎮撫隊を編成し3月6日甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる土佐藩兵主力の新政府軍に敗れた。

農民出身の渋沢喜作や近藤勇に、江戸防衛の軍事的要所である甲府城を任せようという幕府の意図を、工野正樹氏(西東京市在、歴史研究家)は恭順に徹する慶喜が武装組織の分散を計ったのではと推測しています。
要は、彰義隊も新選組も江戸には邪魔だということか。

彰義隊は3月初めには1500名余の部隊になるが、江戸中心部から離れた郊外(田無が頭にあったかも)に布陣し情勢を注視すべきとする喜作と、江戸市中にいてこそチャンスを活かせるとする天野との間で意見が衝突した。

また、戦にはまず軍資金が必要だから豪商に用立てさせるとする喜作に対し、天野はそれは隊名を汚す行為だと強く反発。両派はお互い襲撃しあう、激しい内ゲバがはじまる。

4月11日江戸城は開城し、慶喜は水戸に引退する。

喜作は松戸まで慶喜一行を見送ると、天野と別れ彰義隊を後にした。

喜作と共に彰義隊を脱出した者は杉並の堀之内の料亭信楽亭に終結した。信楽亭は日蓮宗妙法寺の門前にあった。
この中には尾高新五郎、渋沢平九郎がいた。ここで新五郎は後世でTVドラマに打ってつけのある面白い武器略奪作戦を実行してみせます。
つづく。





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