幕末の田無8 振武軍(脱走兵)250名駐屯する
8.幕末の田無(その時時代は動いたかもね)
1868年5月1日当時、田無村は僅か15歳の江川太郎左衛門英武(ひでたけ)が納めていた。
新政府の総督府に英武が宛てた届出には「5月1日に脱走兵250名程が田無の3つの寺に刀・小銃で武装し分宿し近郊の見回りを行っている」旨の報告あり。
江川太郎左衛門英武は幕末史で有名な伊豆韮山に反射炉を設営した江川太郎左衛門英龍の五男で、いち早く朝廷に恭順の意を示していた。
その当時の江川太郎左衛門家の領地の広大なこと。まさに有力大名クラス。
田無山総持寺
総持寺の西450mの田無町5丁目7の観音寺。
田無の3つの寺とは西光寺、密蔵院、観音寺のことで『新編武蔵野風土記稿』によると3寺の本堂の広さは合計で250畳ほど。
兵士250名が駐屯するには相当狭い。
なお1875年(明治8年)西光寺は密蔵院、観音寺を吸収合併し田無山総持寺となります。
田無が駐屯地に選ばれた理由として考えられるのは3つほど。
①青梅街道で江戸防衛の要である甲府に進軍できる。
②一橋領のある高麗日高や渋沢の故郷である血洗島(現、深谷市)に進軍できる。
③水戸藩江戸屋敷に出入りしていた田無村名主、下田半兵衛富潤(とみひろ)とは面識があった。
堀之内から田無に屯所を移した日は、江川の届出や蔵敷村(現、東大和市)の名主、内藤杢衛門の『里正日誌』では5月1日とあるが、渋沢喜作の証言や『渋沢平九郎伝』は4月の28日頃と食い違っている。
慌てた喜作の記憶違い、記録違いかもしれない。
つづく。
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