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2021年04月27日

明治41年末★田無事件 その3



1.田無事件その発端
2.フィクサーと有力町議の暗躍?

3.有力町議に激怒する町民
明治41年11月19日、U野町長は田無町の10地域の組長に議題を告げずに召集をかけ、総持寺東側の町役場に全員が集まり、2名の有力町議も町長と同席した。
町長は「町の西北部(ほぼ現在の東大農場)にハンセン病医療施設を誘致したく請願書を東京府に請願書を提出した。町民の反対はないと思うので、町長として添え書もつけた。各組長は組に帰りその旨を町民に伝えて欲しい…未だ決定したわけではないが」と説明すると、会場は騒然とした。
明治の中頃に鉄道誘致を断り、経済的な地盤沈下を経験した地元の有力者の一部は、どうにかして政府事業の誘致で失地回復を狙った時代でした。
慌てた実力者S田町議は「医療施設は政府事業であり、町民は町の将来を考え、町当局の判断に賛成すべきである」と語気を強めたが、組長は頑と首を縦に振らずに解散となりました。
同月27日に上宿の観音寺(現スーパーオリンピック東側)に組長が集まり、開院したばかりの佐々病院からハンセン病について説明を受け、伝染するらしいとの感触を得て解散しました。
翌々日29日に観音寺近くの4区I組長宅に再び組長が結集し、誘致には絶対反対する意思を共有し、直ちに誘致反対の請願を東京府に提出することで意見の一致をみました。
東京府に田無町は全く反対の請願書を二通出すことになるのです。つづく。
 


  


  • Posted by まつざきひろし at 14:54Comments(0)明治時代の田無

    2021年04月26日

    明治41年末★町民VS地元有力者!田無事件




    2.フィクサーと有力町議の暗躍?           
    目黒村に反対されて困っていた東京府に、ある人物を通して、田無町が手をあげるという情報がもたらされました。
    色めく東京府。が、事はスムーズに動きませんでした。 

    新しい療養所開設は当時,国と東京府にとっての大事業の一つとあって情報屋、利権屋の暗躍があったと推察される。
    実際、久米川出身の川上由雄という「壮士」を自称する人物から、彼の知人であった田無町議会の最有力町議のS田遊亀蔵氏に打診があり、S田氏は自分に次ぐ有力町議のK山平太郎氏に相談し、両者の意見はほぼ誘致で一致をみました。 

    誘致候補地は現在の通称、東大農場にあたる広大な低湿地帯で、当時はほとんど居住者のいない原野。 
    両議員の町議会における影響力は極めて大きく、そのために町議の認印を取り誘致賛成の請願書を作成し、町長のU野氏の添書、職印を押捺し、町議会での審議を飛ばして、東京府に提出しました。
    なぜ町議会を経ずして、勝手に請願書を提出したのか。町民は激怒したのでした。続く。
      


  • Posted by まつざきひろし at 07:00Comments(0)明治時代の田無

    2021年04月25日

    明治41年末★町民が大激怒!田無事件



    さる4月18日(日)コール田無にて14時より田無地方史研究会の4月例会が開かれました。
    中心テーマは「田無町事件」で講師は会長の近辻喜一氏。
    知る人も少なく、ギクッとするテーマですが、これは刑事事件ではなく、田無史上初ともいえる「町議会有力者の暴走に全町民が反対運動を展開した」出来事でした。数回に分けて当研究会の紀要をベースに発表の要点を抜粋してお知らせいたします。

    1.事件の発端。
    時は明治41年(1908年)11月、田無町議会の一部有力議員の判断で田無町に、ある医療施設を誘致する案が持ち込まれました。
    目黒村にあった医療施設「慰廃園」の増築拡大が地元で大反対にあい、代替地を探していた東京府に田無の有力者が手を挙げたことが事件の発端でした。
    実は、医療施設はハンセン氏病(らい病)の施設であり、僅23名の患者数がいるだけで目黒の名産ブドウの売れ行きが悪くなったといわれ、村民はいたく神経質になっていた背景がありました。
    目黒に反対されて困っていた東京府に、ある人物を通して、田無町が手をあげるという情報がもたらされました。
    色めく東京府。が、事はスムーズに動きませんでした。続く。

      


  • Posted by まつざきひろし at 07:42Comments(0)明治時代の田無

    2019年04月17日

    武蔵野市の冨士塚


    長く人々の信仰を集めていた霊峰、富士

    その霊的ご利益にあずかるには頂上に立

    つこと。

    それが叶わぬなら、せめて霊峰に擬した

    山を富士山の溶岩で作り それをお参り

    すれば、登山し祈念したのと同じご利益が

    ある。

    これが富士塚信仰で、その起源は江戸時

    代初期になるそうな。
     
    そんな富士山が幸いJR中央線武蔵境駅

    の南口近くにあり、先日登頂に成功しまし

    た。その登頂記をここに発表させて頂き、

    本日の富士山報告とご了承ください。
     
     
    まず富士浅間神社の入口です。

    信仰的には御山の登頂口でもあります。
     


    イメージ 1

    両サイドを屈強な獅子にガードされ

    七五三を右から読ませるあたりに

    あなどれぬパワーがみなぎります。


     
    イメージ 2
     
    鳥居が連続し、二つ目の鳥居が赤だと思

    いきや 距離を置かずに 左手奥には 

    石の急階段が。

    早くも信仰が試されます。
     
    そしてまた鳥居だ。

    鳥居をくぐるたびに 心がクリスタルの

    ように純化するのが分る。


     
    イメージ 3
     
    急勾配の石階段を息を切らせながら 

    頂上をめざす。

    とくに酸素が希薄になった感じはなかった

    が、頂上の社が見えるころには脚が棒に

    なっていた。
     
    乳酸で太ももとふくらはぎがパンパン

    になりながら どうにか登頂に成功する

    ことができた。
     
    しばし感慨に浸る。
     
     
    上りに比べれば 下りはあっという間であった。

    麓にもどってから撮った写真をお見せします。
     
     
      
    イメージ 4
     
    意外に低い。

    後ろのマンションの二階にも

    抜かれるありさまです。

    とほほ…。
     
     
    この富士山はJR中央線武蔵境駅南口の武蔵境通に面し、聖徳学園の隣にある
    杵築大社の中にそびえております。
    皆さんも一度お参りください。