たまりば

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2021年06月24日

切手に歴史あり。第71回全国切手展。

クリックで拡大します。



歴史・切手フアンの皆さまにお知らせです。
切手は内外の区別なく、その発行された時代を様々な形で後世に伝えていると言われます。
またアートとしても素晴らしい作品になっています。
歴史フアンで切手を趣味としている人は決して少なくないようです。

田無地方史研究会代表の近辻喜一さんもその一人で、研究家として、今回第71回全国切手展でも発表しています。



ぜひお運びください。

  


  • Posted by まつざきひろし at 10:56Comments(0)管理人の寝言。

    2021年06月17日

    幕末の田無10 撃剣!並木綱五郎



    10 幕末の田無(その時時代は動いたかもね)
    戦力増強 振武軍!田無の剣豪 並木綱五郎!

    新政府の追求を怖れたのか、田無には下田家文書も含めて振武軍に関係する記録がほとんど残っていません。
    でも無いわけではありません。

    振武軍会計下役(尾高新九郎の補佐)北條隆八郎の『戊辰私乗』には現代訳すると
    「滞在すること十数日 隊の名簿を作り、規則を定め、近隣住民への略奪行為を禁じ、兵具を整備しています。我々の隊の噂を聞きつけて入隊するものが後を絶ちません」
    旨の記録があります。



    宿舎の西光寺境内では連日剣術の練習をしていて、幹部は来たるべき決戦に備え、多摩各地に兵士のリクルートに余念が有りません。
    この頃のニュースとして面白い話が残っています。



    西光寺境内での剣術練習は公開されていて、少し腕に覚えのある者の参加を許したそうです。その話を耳にして参加した男の一人に田無村北芝久保に剣術道場を開いていた並木綱五郎がいます。

    なにが面白いかというと、人並み外れた並木の剣に、何人もの隊士が挑んだが
    一人も勝てなかったというのです。

    『田無市史第3巻通史編』では、並木は北辰一刀流を江戸の千葉道場で学び、撃剣といわれる腕前になります。元治、慶応年間には田無の北芝久保に道場を持ち1871年(明治4年)に46歳で病死。亡骸は芝久保の並木家の墓に埋葬されたことが記されています。


      


  • Posted by まつざきひろし at 10:06Comments(0)江戸時代の田無

    2021年06月07日

    6月例会のお知らせ

    田無周辺地方史フアンの皆様 お待たせしました。
    6月例会のお知らせです。
    深堀するとまだまだ出てくる田無周辺の歴史の面白さ。
    いっしょに楽しみましょう。




      


  • Posted by まつざきひろし at 11:43Comments(0)月例会

    2021年06月04日

    幕末の田無9 総持寺(西光寺)裏で男を斬首!!!



    9幕末の田無(その時時代は動いたかもね)

    総持寺(西光寺)裏で男を斬首!!!

    急造りながら振武軍は田無で以下のように3軍に組織化されます。

    頭(かしら) 渋沢喜作
    前軍頭取   野村良造
    中軍頭取   滝村庄吉
    後軍頭取   渡辺遠
    会計頭取   尾高新五郎

    実際には尾高新五郎は横澤新五郎と変名を使っていますがここは名前は一本化しておきます。
    注目のイケメン渋沢平九郎は中軍組頭(副頭取)。

    250名から300名の兵が3つの寺院に寝泊まりしますので、寺院の位置を地図で確認しておいて下さい。
    日付は不明ですが、官軍の回し者と見られる男が一人捕らえ、尋問するが自白を得ず、やむなく後軍頭取の渡辺遠が西光寺の墓所側で首をはねます『戊辰日誌』。

    西光寺の過去帳には氏名不明の者を慶応4年5月7日に埋葬した記録があるのでこれが斬首された男のことと推定されます。
    斬首は明治の中期まで行われた刑の執行方法の一つで、有名なところでは安政の大獄の吉田松陰、明治中期の毒婦と呼ばれた高橋伝などがあります。

    田無には新政府の追求を怖れたのか、膨大な記録である下田家文書も含め、振武軍に関係する記録がほとんど残っていません。

    明治初期の田無宿(柳沢宿)の図。


    つづく。  


  • Posted by まつざきひろし at 21:47Comments(0)江戸時代の田無

    2021年06月01日

    幕末の田無8 振武軍(脱走兵)250名駐屯する



    8.幕末の田無(その時時代は動いたかもね)


    1868年5月1日当時、田無村は僅か15歳の江川太郎左衛門英武(ひでたけ)が納めていた。
    新政府の総督府に英武が宛てた届出には「5月1日に脱走兵250名程が田無の3つの寺に刀・小銃で武装し分宿し近郊の見回りを行っている」旨の報告あり。

    江川太郎左衛門英武は幕末史で有名な伊豆韮山に反射炉を設営した江川太郎左衛門英龍の五男で、いち早く朝廷に恭順の意を示していた。


    その当時の江川太郎左衛門家の領地の広大なこと。まさに有力大名クラス。


    田無山総持寺

    総持寺の西450mの田無町5丁目7の観音寺。

    田無の3つの寺とは西光寺、密蔵院、観音寺のことで『新編武蔵野風土記稿』によると3寺の本堂の広さは合計で250畳ほど。
    兵士250名が駐屯するには相当狭い。
    なお1875年(明治8年)西光寺は密蔵院、観音寺を吸収合併し田無山総持寺となります。

    田無が駐屯地に選ばれた理由として考えられるのは3つほど。
    ①青梅街道で江戸防衛の要である甲府に進軍できる。
    ②一橋領のある高麗日高や渋沢の故郷である血洗島(現、深谷市)に進軍できる。
    ③水戸藩江戸屋敷に出入りしていた田無村名主、下田半兵衛富潤(とみひろ)とは面識があった。

    堀之内から田無に屯所を移した日は、江川の届出や蔵敷村(現、東大和市)の名主、内藤杢衛門の『里正日誌』では5月1日とあるが、渋沢喜作の証言や『渋沢平九郎伝』は4月の28日頃と食い違っている。
    慌てた喜作の記憶違い、記録違いかもしれない。
    つづく。  


  • Posted by まつざきひろし at 08:41Comments(0)江戸時代の田無